Alju‐arra(アルジュハラ)
誰に言えようか。
あなたを想っていたと。
金色の草原に騎士が立っていた。
遥か遠くうしろには城がある。
ほかは何もない。
風もない。
騎士は愛しい人を思った。
短剣を取り出した。
のどに定め、
突いた。
騎士はゆっくり地に沈み、
草原には、風が吹いた。
一.
1437年
遥か南方の小国、Alju-arraを訪れる。暫く滞在。
王族、騎士、商農民・機工の職から国家が成り立ち、
十四の村にわかれている。
騎士の大半は女であり、それぞれ5部隊に分かれ、
王侯騎士・神殿騎士・騎士・馬上騎士・歩兵の順に位が高い。
農耕・鍛冶を男が請け負い、役目により、服装や
髪型が決められている。
T=シュールドマン
その日はとても暖かい日だった。
戦争の煙も、まだこの小国アルジュハラの大地と空気と
空を染め抜いてはいない。が、それも目の前に迫っていることは、
この暖かな中庭庭園の日差しにも関わらず物騒な鎧を着込む
リブラと、控えめなアルジュハラの伝統衣装に身をつつんでいる
アルジュハラ第3皇女、イアとの間に流れる不自然な沈黙の中に
感じ取ることはたやすいことだ。
雲が中庭庭園に木陰を作ったとき、
目は空間を見つめ、だが考え込んでいたイアが
はじめて、口を開いた。
「ヒルジューノの大臣率いる部隊が昨日、ミルレイ河岸
に向けて出陣したそうよ、リブラ……」
中庭の片隅に咲いているコスモスの紫に気を
取られ、それに思考を委ねていたリブラは、イアの
声に答えるべく、顔をそちらへむけた。
背の高い、はっとするほど端正なその顔立ちの
主からの空気の動きにつられ、イアは顔をあげる。
そこにある顔。鎧。
いつもの、リブラがそこにある。
「ええ。
大丈夫ですよ姫…、必ずやアルジュハラは
勝ちます故」
物心ついたときから自分に忠誠を誓う、しかし
姉のような存在のリブラは、だけど昔からこの距離で
ものを話していた。 イアはそれがもどかしいと、今は
思った。もどかしいとき、心の動きを感じられないとき、
それをくずしたいとき、イアはすぐにムキになる。
リブラは嘘をつかない。
何故なら彼女は、こちらが促すと打ち明けてくれるから。
そして彼女は、いつだって公平だ。
何故なら彼女は、この国で1番崇高な職、王侯騎士だから。
「今どんな気持ちなの、リブラ」
声を少し尖らせて、イアは尋ねる。
リブラの目が少し、柔らかくなる。
この瞬間が、イアは好きだ。
自分の目線まで降りてものを話してくれるとき、
リブラはいつもこの目をするからだ。中庭の中央階段に
腰を下ろしながら、リブラは先ほどとは違う、親密な間柄に
話すような暖かさで、イアに答える。
「なぁに、今までの戦に行くとおりの気持ちですよ、姫」
「でもお父様がご病気になって、ミルレイ河での戦の指揮は
お兄様がするから、お父様を慕っている騎士たちの士気が
落ちるんじゃないか、って、おねえ様やみんなが噂していたわ。
圧倒的にアルジュハラは不利だ、って。」
「士気の心配はご無用ですよ、姫。」
父王を思う気持ちは、誰よりもこの姫が1番強いのだろう、
そしてそんな姫の護衛を、亡き姫の母より賜った自分は幸せもの
だな、と感じながら、リブラはまた目を細め、笑った。
腰に下げてある、使い慣れた愛剣が音をたてた。
「今年の春から新たに入った騎士はつわものが揃いましたし…。
姫が嫌いな幾何学を、眠くなるベルモン先生から習っている間に、
ヒルジューノの部隊など蹴散らして参りますよ。」
「まぁ。私は貴方のことを心配しているのに、リブラ!」
本格的にムキになってしまった姫に、リブラはつい、声を
あげて笑ってしまう。アルジュハラ誇る第1部隊騎士隊長として、
長年厳しい訓練に身を投じてきたリブラだが、この姫の綺麗には
勝てない。
勝てないことが、嬉しい。
それで、笑ってしまうのだ。
「姫は、私があっという間に負けてしまうほど弱いと、
そう思っておられるのですか」
「ち、ちがうわ!そんなこと思っていないの。」
あわててイアはリブラの横にしゃがみこむ。
伝統衣装がふわりとふくらみ、またおさまる。
「あなたほどの騎士はいないわ、リブラ…、でも、でも、
あなたに万一のことがあったら……」
だんだん悲しそうな顔をするイアを見つめ、
リブラは微笑んだ。
「私に、万一など、ありませぬ」
顔は騎士に、戻った。
「私はこの身を私の生まれ育った故国に使う、
そしてもっとも喜ばれる職につきたいと願い、そして
叶えました。今の私があるのは、私を認めてくれ、
姫に対する思いと同じほどの愛で育ててくれた姫の父と
この国があったからです。
私は姫の母に、姫を守ると約束したのですから…、
それを遂行するのが、我々騎士の役目なのですから。」
イアの声が、切なげに震えた。
「じゃあ…、私にもしなにかあったらどうする?
あなたのいない間に、私が何かに巻き込まれたら
どうするの?」
リブラが止まる。
息を吸った。
「呼んで下さい。」
イアの空気を待たずに、続けた。
「あなたが心の中で私の名を呼べば、
たとえあとひといきで敵の首を落とせたとしても
戻ってきて救ってさしあげましょう。」
雲が行き、また日が差した。
イアの声も、日が差す。
「ありがとう、リブラ!」
城へ入るイアを見送り、リブラは庭園をあとにした。
二.
六月二五日 巨蟹宮
Alju-arraとhrru-juuoの軍勢がミルレイ河で
衝突。士気はアルジュハラが上であったが、
軍配は死を呼ぶ粉や新しい武器による戦法を用いた
ヒルジューノの作戦にあがる。
「迂闊であった。
まさか剣を用いずに来るとは、な。
さすがのお前も気付けなかったであろう。」
ここはアルジュハラの西の謁見の間である。
そしてリブラは傷ついた体や返り血を浴びた鎧のまま、
王に謁見している。許されるのは、リブラだけであろう。
大きな寝具のなかに埋もれ、だが剣は絶えず身から
離さない、リブラが忠誠を誓ってやまない鷹の目を持つ
故国の主は、苦しいはずの呼吸を乱すこともなく、そう一言、
リブラに答えた。
リブラはそんな王を目の前にただ、自分を責めつづける。
血の味のする口から、重い唇を押し開き、次の言葉をやっと、
吐き出した。
「死を呼ぶ妖しげな粉の舞うなか、悶え死ぬ騎士を目の前で
見ていながら、私だけがおめおめと生き延びてしまいました。」
「よい、言うな」
「私の部隊はほぼ壊滅です。
国王より任せられた選りすぐりの騎士の命を、
私は全て守り切ることが出来ませんでした。」
「よい、リブラ」
王はただ、しかし強く、リブラを諭した。
「お前が生きて帰ってきただけでも、良かった」
それに、と加えて、国王は顔を苦渋にゆがませた。
「おめおめと生き延びたというのは私の息子のことだ、
リブラよ。あれは死ぬることが怖かったと、ゆくゆくまで
笑い種となるであろう、なげかわしいことだ。」
王は続けた。
「ところでリブラよ…、ヒルジューノは我が娘イアを
ヒルジューノの皇太子の妃に欲しいそうだ。おそらく
それが目的で、この戦をしかけてきたのだろう…。」
姫を?
一瞬、リブラの頭が白くなった。
はっとして、顔をあげる。動揺している
自分に気付き、リブラはさらにうろたえた。
声を震わせ、リブラは聞いた。
「で、では、姫を…!」
「いや、娘に聞いたことがある。
娘は想い人がいるそうだ…」
安心したと同時に、新たに
沸き起こる感情に揺れ、我にかえった。
「想い人…ですか」
「うむ、誰なのかは聞いていないのだがな…。
どちらにしろ、まだあれを手放すつもりはない。
私はそれより、和平の条件にイアを、というヒルジューノの
やり方が気に食わぬのだ…。私達は今回の戦に破れはしたが、
対等の小国同士で渡り合ったのだ、わが国はヒルジューノに
取り入るつもりも、降伏するつもりもない…。
戦が長引くのは国の民を苦しめるが、
この条件を飲むつもりはないのだ。もう1度
部隊を編成し、戦うつもりだ。
行ってくれるか、リブラ」
アルジュハラを先代にはないここまでの繁栄にさせたのは、
ほかならぬこの王である。リブラはもとよりこの王に生涯を尽くして
いたので、戦えることに感謝をした。自らの落ち度を晴らせる場所が、
もう1度、与えられるのだ。
彼女はすぐに応じる。
「おおせのままに」、と。
心の陰りに気付きながら。
その日の夕暮れ、月は細い弧を空に描いていた。
アルジュハラの大地は薄紫に染まる。アルジュハラ城も
例外に漏れることなく、その壮大な外観を空のそれと同じに
染めていた。大気はまだ、あたたかい。
アルジュハラ城は、東の回廊を抜けた吹き抜けの
踊り場から左の階段を登ると、アルジュハラの草原を
一望できる廊下がある。そこから吹き抜けを振り返れば、
天井まで届くステンドグラスが見る者を惹き寄せる。
アルジュハラ第3皇女、イアの部屋は、この廊下の
1番奥にあった。戦から戻ったことを伝えるため、という
理由を心に作り、リブラはイアの部屋を訪れた。
ノックをしても返事がないので、リブラはそっと
ドアを開いた。大きく、白く、しかし皇女にふさわしい
品格を備えたイアの部屋には、これまた綺麗な大窓がある。
イアはそこから、ぼんやりと薄紫の草原を眺めていた。
リブラはイアを静かに呼んだ。
ゆっくり振り返る姫は、一瞬不思議そうな顔をしたが、
リブラだとわかると、ぱっと笑顔になった。皇女にふさわしい
振るまいを姉達から教わっているのだろうが、今のイアは
リブラに走り寄る美しい少女でしかない。
「おかえりなさい、リブラ!
良かった無事で……!負けたと聞いて、
心配で…」
リブラは無理矢理笑顔を作った。
「…申し訳ございませぬ、姫…、
私だけおめおめと生きて帰って参りました」
イアの笑顔が曇った。
「もういいわ、リブラ…責めるのはやめて。」
さらに口を開こうとするリブラを、イアはリブラの
名前を呼んで止めた。そして苦しげに口を開いた。
「リブラ、私、本当は…、本当は、
戦争に勝ったのも負けるのも、そして
誰が死んでしまったのも、どうでもいいの…、
貴方がこうして、生きて帰ってきて
くれたんですもの」
リブラははっとしてイアの目をのぞこうと
したが、イアの目は両手に覆われていた。
泣いていた。肩が震えている。思わずのびかけた
手を、騎士の精神が制止させた。
騎士は、他人に触ることを許さないのだ。
手に他人をかけるとき、それは、人を殺めるとき
しかない、そうリブラは叩き込まれていた。
自分のために涙をこぼしている
少女を目の前にしながら、リブラは言った。
「姫、我々騎士は、人に触れることはタブーと
されておりますゆえ、姫を救えるものは今の私には
何もありませぬ…、どうか、どうかお顔をお上げ
下さい。」
イアは涙の伝う頬を拭いつつ、うなずいて
顔をあげた。リブラは微笑んだ。
「姫の温かい涙で、私が救われたように
思います…、ありがとうございます。」
イアは熱っぽく言葉をリブラに重ねた。
「リブラお願い、もう何処へも行かないで。
ずうっと、この城にいて、私を守っていて。」
ずしり、と、胸に刺さる。
私はいつだって、守る為に…
私はいつだって、…
嬉しいのと、困惑が、同時にリブラを襲った。
こみ上げてくる言葉を飲んだ。
リブラは無理矢理笑った。
痛いまま、言葉を吐いた。
「ふふ、姫にそのような勢いで迫られては、姫の
思い人は、さぞかし、嬉しかったことでしょうな。」
イアがきょとんとする。
「え?なんのこと、リブラ?」
リブラは足元に目線をおとした。
声は心の動きを姫にさとられないように
平静を保っている。
「貴方様のお父上がおっしゃっておりましたよ、
姫には思い人がいらっしゃる、と」
自分で言う言葉に打ちのめされるなど、
騎士に許されてよいものなのだろうか。リブラは
自分のことを低く笑った。
イアは黙って、テーブルの燭台に火をともした。
火の燃える音が、部屋に響いた。
「いつか、お父様に、打ち明け様と思うの。
その人と一緒に暮らしたいと……」
イアは恥ずかしそうに笑った。
リブラは自分と葛藤していた。
変わらず、自分を抑えつけた。
「それはそれは……。
そのときには私にも教えてくださいますか。」
姫がまた無言でテーブルの向こうへ廻った。
燭台をはさんで、向かい合わせになった。
リブラの問いを、イアは問いで返した。
「…どう思う、リブラ。
私がその人と一緒に暮らそうと、
思っていること。」
傷つきました、など、言えるはずもない。
リブラは反射的に言葉を返した。
「い、いや、別に何も思ってはおりませんが」
イアがはっとする。
うつむいた。
「…そう……」
これ以上、ここに居るのは、辛い。
戦いに赴くのが楽しいことであるリブラは、辛いという感情を、
このときはじめて感じた自分を、自分のなかに認めた。
空気にピンを刺す。
「では、今日はこれにて失礼いたします、姫…」
姫はうなずいた。
扉を閉めて、リブラは小さなため息をついた。
部屋を遠ざかる足音を聞いて、イアは窓の外へ
目をやる。
壁にかかっている、アルジュハラの紋章をかたどった
タペストリーが、この部屋を重く、低く、見下ろしていた。
三.
九月十六日 処女宮
Alju-arraが再度部隊を結成、hrru-juuoへ
総攻撃をかけている最中に、Alju-arra側で多少の
不穏が起こったことが、無駄に血を流さずに大国を
生み出すこととなる。
「無駄な説明はせぬ、一言も逃すな。
私がこれから話すことを、そなたの胸に刻め、
リブラ」
その日の自分の呼び出しが只事ではないと
感じてはいたが、王が重い容態にも関わらず正装で
玉座に座っているのを見たとき、そして何より王の顔を
みたとき、それは自分が想像している範囲を超えていたことを
リブラは知り、いつにも増して心を引き締めた。
「はい、陛下」
その言葉はびしりとリブラにつき刺さった。
「今日限り、ヒルジューノとの戦をやめる」
リブラは目を見開いた。
「なっ…何故でしょうか、陛下」
答えない国王を攻めた。
「姫をヒルジューノの皇太子殿の妃に
差し出すというのですか?」
「それもありえるな」
王の目は、いつにも増してリブラを見つめる。
わからない。
リブラは声が荒がるのを止めることが
できなかった。
「何故でしょう、陛下!
姫の意志はどうなるのでしょう!?」
王に思わず歩みよった。
王は只、リブラを鷹の目で見つめている。
王と同じくらい、リブラは炎を宿らせていた。
それは、なんの炎なのだ、リブラよ…。
王は只、静かな炎で、リブラの炎を
返した。
リブラはひるまない。
「姫をヒルジューノに差し出すのは、それは
向こうと対等にたちあった我々の国を売るも
同じことではないのですか!?
姫には思い人が……」
「その思い人が、
リブラ、お前だと知っても、
まだ何か言う気になるかな?」
リブラの体を、たとえようのないものが
かけめぐった。愕然とした体から、息が漏れる。
リブラの動揺を王ははじめて、目の当たりにした。
暫くの沈黙を、国王は、破る。
「…私は姫の思い人は、男だと思っていた。
是非会って、姫を貰って欲しい……、そう願う
つもりだった。
この戦も、国威が関わっていたとはいえ、
娘を国の制略にかけることは、できるだけ避けたい、
そう思っていたところもあったのだ……
民も、娘を思う私の気持ちを、苦しい戦が
続くことを、私に免じて許してくれた。」
ここで国王はくぎりをいれた。
動揺が幾許か納まり、自分の話に意識を
集中させるリブラを見つめた。
「しかし二日前に、娘から、思い人がそなただと
聞かされたのだ…。自分は、皇女でもなんでもなくていい、
そなたと一緒に居たいと言った…。
私の気持ちがわかるか、リブラ……。
あいつは私と我が国と、我が国の民に泥を塗ったのだ…。」
王の弱々しい、しかし怒りにふるえる顔を、
声を、もはやリブラは直視できなかった。王は涙こそ
流しはしない。が、声からそれが伝わってくる。
リブラは騎士の顔を取り戻した。
王の話を、その空気で促す。
「…すでに国中でよからぬ噂が広がっておる…、
娘のよからぬ恋のために、
国を巻き込んで、無駄な血を流している、
とな……。」
王も、国王の顔に戻った。
「私は娘のことは、もはやどうでもよいのだ、
リブラよ…、国民の不満を抑えられるのならば、
ヒルジューノに娘を差し出すことで戦を終える
こともできる。
もしもお前が娘を欲しいというなら、
皇族の身分を解いてやってもいい…。
私の役目は、アルジュハラを治めること。
さぁ、どうする。
決めてくれ。」
国王に、リブラは、深く、ただ深く、頭を垂れた。
自分に答えを出すことを許してくれる王に、返せることは…、
自分が、騎士として答えを選ぶことだ、リブラはそう直感的に
解っていた。
立場。
それを守らねばならない。
誰にも代わることのできない、
立場。
それが、長年生きてきた中で、
リブラが学んだことなのかもしれない。
迷いは、なかった。
目をとじ、そして、開く。
リブラは顔をあげた。
「私が敬愛してやまない、我らが国王よ…、
この私が一人、この国から去らせていただく故…、
どうか姫のご身分を解かれることだけは
お留まりください…」
(責任をすべて、被るというのか、リブラよ…)
「うむ…」
「陛下のお怒り、どうかお静めください…、
全ての原因はこの私にあります…
姫をお責めになりますな」
(国のために…)
「…すまぬなリブラ……」
「いいえ、陛下…」
長い長い沈黙が訪れた。
国王の目が、きらりと光ったのを、
リブラは読み取った。
その言葉を待った。
「…そなたが我が娘のことを本当のところ
どう思っているのかはわからぬが…、
今宵そなたがする事には一切関知
しなかったことにするとしよう…」
リブラは微笑む。
「ありがとうございます。
…では失礼いたします、陛下…
おだやかにお過ごし下さい」
深い敬礼をする。
(…そなたが我が国のために
尽くしたこと…、生涯、私の名において
忘れはせぬぞ、リブラ…)
王はがっくりとうなだれる。
振り返ることなく、リブラは謁見の間を出た。
イアは寝着に着替えてまだ間もないというのに、
廊下の外の衛兵達がいつもよりも早くひきあげることに、
疑問を感じていた。いつもこの時間なら、自分の部屋の前は
何人もの衛兵が廊下を歩いている。
なのに今日は、もう夜中の見張り番一人が、
ずっと先の廊下に立っているだけだ。
のぞいていたドアを静かに閉めて、イアは暖炉の前の
ソファに腰掛けた。そして、二日前に自分が父に告げたこと、
そして父が言ってくれたことを思い返していた。
(お父様はリブラと暮らすことを考えてやると
おっしゃっていたけれど…、本当に、叶えてくださるの
かしら)
暖炉の火の瞬きにぼんやりしていると、
ふいに、ドアをノックされた。先ほどの、いつにない
衛兵の様子を見ていたのも手伝ってか、イアは
不安に襲われた。
おそるおそる、ドアを開くと、
そこにいたのはリブラだった。
黒い、王侯騎士隊長がつける甲冑に身を包んでいた
リブラだったが、何よりリブラがきたことに、イアは顔が
火照るのを隠せない。
リブラは少し部屋に入った。
イアもつられて部屋に入る。
「どうなさったのリブラ、こんな遅くに…
明日あなたは戦地へ赴くと、お父様が言って
いたのに。」
「…姫に、どうしても会いたかったのですよ」
後ろ手で、リブラはドアをしめた。鍵の落ちる音が
聞こえたが、イアは自分の目をのぞきこんでくるリブラに
吸い寄せられていて、聞こえていない。
リブラには、これからはじまる、いや、何かが
壊れる音に聞こえていたのかもしれない。
寝着に着替えていることを後悔しながら、
イアはふと、思い当ることをリブラに尋ねた。
「ね、ねぇ、リブラ…、もしかして、その…、
お父様から聞いたの?
私が、あなたと、暮らしたい、ってこと…」
リブラは微笑んだ。
「ええ、聞きましたよ、姫」
イアの顔が赤くなった。
「そ、それで?
お父様はなんとおっしゃっていたの?」
リブラはイアを見つめる。
「お父上は…『いい』とおっしゃって
くださいましたよ」
イアはぴょんと飛び跳ねた。
「まぁ!嬉しい!!!」
しかしすぐに、不安そうな目になる。
「…で、でも、
あなたの気持ちを聞いていないわ、リブラ…
あなたは」
「姫」
言葉を被せて、リブラが言った。
「騎士が髪の毛を束ねずにおろしてくるときは…、
どんなときか、ご存知ですか」
イアがリブラを見つめた。
すっかり舞いあがっていたけれど、よく見れば、
リブラはその美しい豊かな髪を、今日は束ねず
さらりと垂らしている。
「えっ?
そ…それは、戦いに赴くときでしょう?」
リブラはうなずいた。
「そう。
そしてもう一つ」
(貴方様と自分に嘘をつくとき…)
リブラは微笑んだ。
「それは
貴方様を抱こうと決めたときです」
イアの鼓動が、高鳴った。
「で、でも…!
あなたは他人に触れてはならないと…」
「…触れずに、愛が確かめ合えますか?」
肩の鎧をがちゃり、とはずす。
「私にはできない…だから…、
今宵だけ、騎士であることを
捨てます」
続けて胸の甲冑を。
リブラの体の線が現れてくるにつれ、
イアはたとえようのない気持ちになった。
リブラは、本気だ。
いつだって、いつだって…
イアの知っているリブラは、本気だった。
でも…、何故か今日のリブラには、何かが
あるようで、ならない。イアはリブラの腕を抑えた。
リブラの動きが少し止まったのをイアはのがさず、
言葉を発した。
「だめよリブラ…!!
私のためにそんな……」
「構いません
貴方様の…
気持ちを叶えることができるのなら
私は…」
(違う。
本当は、姫…)
涙を伝わせる姫の頬に、はじめて触れた。
そのまま引き寄せて、くちづけをした。
(私は嘘なのです)
――神よ 我を斬りたまえ――
「離しませぬ」
そのままゆっくり、床に押し倒した。
(罪などひとつあれば百犯しても同じこと)
愛しいそのものの体を、目眩めく気持ちで
抱いた。
(卑怯者め、ここまでしておきながら、
未だに言葉に出せないでいる)
ずっと秘めていた感情を、
体だけで、触れたいと願った場所に、
触れたい気持ちの量だけ、触れた。
(傷つくのがこわいから
嘘をつきとおすのか)
壊したくなかった愛しい空気。
――何故にここはこんなに冷たい?
溶ける。
――何故に神は人を創った
――何故に神は姫と私をこのような形で
めぐり合わせた……
二人は深い眠りに、ついた。
四.
朝日と同時に、リブラは抱いていたイアの
体を離した。眠るイアの額に、くちづけをした。
そのままさっと身を起こし、
前もって置いておいた鋏を取りだす。
イアの眠る寝具の上で、
騎士は髪を切った。
美しく長い、艶やかなそれは、
イアの眠る体に、枕に、布団に、
散らばり、朝日にきらめいた。
甲冑を身につけ、リブラは城を出た。
イアは悲しい夢を見た。
頬に涙がおちた。その冷たさにイアは少し
目を醒ましかけたが、リブラのにおいがイアを
包んだ。
彼女がいる。
目を開けることなく、イアはふたたび眠りについた。
五.
1437年
九月十七日
突然のAlju-arraの降伏により、この戦いは
終結する。二国は以降、Alju-arraの王の退位により、
一つの大きな国となる。Alju-arraの第3皇女イアはその後、
王国を去ったとも寺院へ入ったとも言われている。
九月十八日
北のクスタフ草原で、Alju-arraの王侯騎士の
死体が見つかる。なんのために死んだのか、
それは見当がつかない。
九月二十日
この地を離れる。
T=シュールドマン