2019年 04月 07日
昔書いた小説2アプレイラ
アプレイラ
「 あのね……、
はじめて雲の切れ間から下界の貴方を見たとき、
なんて優しい目をしているんだろう、って思ったの……
どうしてそんな目をするのか、どうしてそんなに深いのか、
それが知りたかっただけなの……
今なら、誰に向けられていたのかも解るけど…
だけどあのとき、貴方の目に魅せられた自分に
後悔なんてないの…
私がしたことも…
戻れない天も…
貴方が好き
それだけだったの 」
だが、それすら伝えられない。
涙が頬を伝う。
次第に迫ってくる地下の業火の
音を感じたが、意識は薄れ落ち、
少女の瞳は光を失くし、
閉じられた。
それでも空は、高かった。
青かった。
一. アプレイラの気持ち
私が地上へ通じる鍵を、ネイル様の机から
見つけようとしたのは、あの人に会いたかったからだ。
ネイル様はあの日、私を見たけれど、私の考えている
ことに気付かなかった。
いつものように、私がネイル様に仕え、小さき天使として
小さい者の魂を地上へ運ぶ船の船長、ゼス老人へお水を届ける
役目を果たす、そう思っていたのだと、思う。
ネイル様ほどの天使になれば、私の思いつきなど無謀としか
言えないだろうし、考えたことだってないだろう。私がこれからしようと
していることを言ったらしかられるだろうし、もしかしたら明日からつらい
お勤めに回されるかもしれない。そう思ったから、ネイル様がいつもより早い
私の訪問に微笑しながら「もう朝のお勤めは終わったの?アプレイラ」って
尋ねてきたとき、やっぱり不安になって、とっさに「はい」って答えちゃった。
ウソをついたっけ。
「そう…」
ネイル様は、それでも私をあやしむことなく、言葉を続けてた。
「これからお産のはじまる女がいるようなの、アプレイラ」
ネイル様は、すごく大きい背中の翼を少し広げて、私に背を向けた。
「産まれる子どもは早く死ぬのか、それとも生きるのか……。
ゼス老人に尋ねてこなくてはなりません。もし生きるのなら、手の平に
寿命を書いてやらねばならないから……」
ネイル様はあちこちを片付けながら話を続けた。
「アプレイラ、ゼス老人は産まれる子等の魂をここから地上へ
運んでくださる船長…、その船長にお水を渡すのがお前の役目…、
素晴らしく、そして大切なお役目だわ、誇りに思うのよ」
「はい、ネイル様」
身支度の済んだネイル様は、そのまま薄緑色の木枠に咲く
花通路を通って、外へ出ていった。
私は、ネイル様をしばらくみていたけど、すぐに部屋に
戻った。ネイル様の机に近づいて、引出しを開いた。シンとした
部屋に、ちょっと大きな音がして、私は手をひっこめた。でも、
もう音はしなかった。私は薄暗い引き出しの中で鈍く光っている
それを取りだし、しっかり握って部屋を飛び出した。
夢中で私は走った。誰かに見つかるのが怖くて、必死で
うつむいて雲を抜けた。少し日の当たる場所で天空花を食べる
羊の群れを超え、雨の貯水している錆びた橋(私達の間では
『古びた貝殻』と呼んでいる)を超え、私はひたすら走った。
悪いことをしていると考えるヒマはなかった。
鍵のひんやりとした感触と、今日の朝のお勤めを
しなかったという事実だけが、私の中に罪悪感として
滞り、私を責めた。
だけど逆にいえば、怖かったのはそれだけだった。
「今日はアプレイラが来んが、どうしたかの?」
手に寿命を描き込みに来たネイルに、ゼスはそう尋ねた。
ネイルの顔色が、変わった。
私達の住む天空は、雲と雲が重なり合ったり、遠くに
なったり、広がりはいつも定まらない。だけど、必ずいつも
その場所だけは他の雲を寄せ付けない。
私達がほとんど近づかない、地上への道だ。
ちぎれ雲の中に、石碑があって、そこに鍵を差し込むと
私達が降りる光を呼び込む場所なのだ。
天使が地上へ降りるとき。
それは、ここで悪を犯したものか、よっぽどの
使命を持った天使だけだ。降りるとき、羽は当然消されるし、
しかし代わりにその背中にはその者にふさわしい罰や運命が
刻まれるのだと、私は小さい頃おばあちゃんに聞いた。
私は今まさに、そこへ来ている。
来たのははじめてだった。風の強い場所で、不気味なくらい
静かな、青い空が私の頭の上に、居た。
私は握り締めていた鍵を、石碑に差し込んだ。かすかに
音がして、そこの風向きが、暑く重く、変わり始めた。
そのとき、かすかに私を呼ぶ声が聞こえた。
私は振り向かなくても、ネイル様だろうということが
解っていたけど、ゆっくり振り向いた。
「アプレイラ……!!」
そこには、真っ青になっているネイル様が居た。
「もう始まってしまっている……」
風を読んで、ネイル様はうめくようにそう
つぶやいた。
それでもネイル様は私に向かって、問い掛けてきた。
「何故地上への扉を開いたのです、どこへ行こうというの」
「地上です」
「アプレ… 」
さえぎって私が続けた。
「会いたいと思う人が居ました。偶然見てしまいました。
だから私、会いに行きます。只、それだけです」
私が言い終わるのを待ちきれないように、
ネイル様が叫んだ。
「何てくだらない…!
只それだけのために、貴方は羽を落とし、罰を背負おうと
いうのですか?」
さらにネイル様は続けた。
「いいですか、アプレイラ…、地上に降りるということは、
人間になるということなのですよ?つまり、生きられる時間が
限られ、苦しみも痛みも、すべてを与えられるのですよ?
良いことなど何もないのです…、
考え直して、早くその鍵を抜きなさい!」
「嫌です」
私の拒絶に、ネイル様は愕然として私を見つめた。
そして言いたくなかったことのように、苦しげに私に
告げた。
「アプレイラ、貴方がもし人間になったとして、その生涯を終えても、
もう再びここへ戻ってくることはできないのですよ。貴方は罪を犯した…、
見えない手は、貴方を、貴方の罪を全てお見通しなのですよ、アプレイラ…。
人間になり生涯を終えても行く先は地下なのです、地獄なのですよ!
それでも貴方は人間になりたいというの」
それが何だというのだろう…?
私はそのときちっとも怖くなかったから、
言葉をネイル様に返した。
「ネイル様は私の気持ちをくだらないと言いました…。
生を司る神ならば、ネイル様、ネイル様は人を好きになる
気持ちもわかるはずなのに…、残念です、くだらないなんて
いう言葉が貴方から出てくるだなんて…。
私はもうここへ戻る気はありません。
火に焼かれて消えても構わない…、
私は行きます」
くるりと背を向ける。
光が私を包み込んだ。
翼が消える。
雲は渦へ変わった。
愛するからこそ生命が産まれるのに
何故それを追い求めるのが罪だというのだろう。
まだ私には解っていなかった。
この先の光は、
なにも、
見えない。
私は光と同時に落ちた。
私という天使が、消えた瞬間だった。
「あの女の子は、
今思えば、天使だったんじゃないのか、って思えるときがある。
僕とあの小さな女の子の出会いが、草原で倒れていたところを
僕が助け起こす、なんていう特殊な出会いだった所為だったからかな。
でもそれだけじゃないと思う。
あんなに綺麗な銀髪は見たことがなかったし、角度によって
すみれ色や矢車草の色に変わる目も、見たことが無かった。綺麗な
銀髪だから、僕はあの子にシルヴィアって名付けたんだ。
僕は口の聞けないあの子にシルヴィアと名付けたけど、もしかしたら、
違う名前を持っていたのかもしれない。そしてあの子は昔は、話せていた
のかもしれない。時々、シルヴィアが僕やレダを見る目はいつも、
何かを話そうともがいているように見えた。
とにかく全てが謎のまま、あの子は僕らの前から
姿を消したんだ。あの子がいなければ、レダも、レダが産んだ
子も、この世にはいなかったろう。」
二. 時間
地上独特の甘い匂いに揺られて、私は目を醒ました。
私の目に、高い空と雲が映った。そして、男の人の顔が映った。
びっくりして飛び起きた。向こうも驚いたようだった。
再び男の人を見た。
背の高い、優しそうな、若い男だ。
ああ、なんという幸福だろう!
私は、私が雲の切れ間から見つけた、あの優しい
瞳の男に出会うことができたのだ!!
私は顔を完全に男の方へ向けた。
男が少し緊張を解いたようだった。
「大丈夫?言葉はわかるかい?」
男が尋ねてきた。私はうん、と言った。
が、言葉は大気に震えなかった。
音にならなかった。
かすれた呼吸の音だけが、私の喉から
出てきた。
おかしい。
再び男の問いに答えようともがいた。しかし、ヒューと
音が鳴るだけで、言葉らしい言葉が、出てこないのだ。
ああ、そうか。私は直感した。これが、羽を失った代わりに
刻まれた、背中の罪なのだろうか。
だけど言葉が話せなくとも、男に会えたのだ。私は
その嬉しさを男に伝えようと、にっこり笑って立ちあがった。
男もにっこりしてつられて立ちあがった。が、その瞬間、再び私は
顔をこわばらせる出来事が私の身に起こっていることを知った。
立ちあがったとき体に走った違和感に、そして男が私を見る表情に
きっかけを与えられ、知った。
私の手が、小さかった。
私の足も、小さかった。
私の背も、小さかった。
すべてすべが小さく、物足りなく、ぎこちなく、
私の魂には窮屈すぎた。
ああ、なんということだろう。
私は、幼い子供、しかも、口の聞けない子として
地上へ降り立ってしまったのだ…!!!
私は余りのショックに、男の話が思うように聞けなかった。
ああ、あれだけ会いたい、そう思った人が今まさに目の前に居る
というのに、あの天使の頃の姿のままでは、この男と出会う
ことができないだなんて…。
持ってこれたのは、この意識と気持ちだけだった。
今の私には、それさえもこの先役に立たなくなるものに
なるなど、知る由もなかった。
痛いほどの辛さは、もう少しで涙に変わろうとしてしまう。
私は必死で耐えた。ネイル様が勝ち誇った顔をしているような
気がして、まだ負けてはいまい、と、自分に言い聞かせた。
そうだ。私はまだ人間として生を受けたばかりなのだ。
まだ、地獄に落ちることもないだろう。こんな罪を背負ったが、
それでもなんとか生きて行けるし、この男とも一緒に過ごせる。
まだ希望を捨てるのは早い。
私はまた少し元気を取り戻した。
「さっきから顔色がよくないな…大丈夫かい?
しゃべれないの?」男の質問の幾つかを耳に捕らえ、
私はこっくりとうなずいた。
「そう…、こんなに小さいのに、お母さんはどこ?」
この問いにも、私は首を振って答えた。
「いないのか…。おうちはどこかわかるの?」
首をふる私を見て、男は困ったような顔をした。
そしてしばらく考えたあと、ゆっくり口を開いた。
「じゃあ、僕のおうちにおいで。僕のおうちは街よりもずっと
離れているんだけど、僕が街へ仕事に出るときに、街のえらい人に
君のことを言っておいてあげるよ、お母さんが僕の家に迎えに来る
まで、僕のおうちにいるといいよ。」
ああ、やっぱり全て投げ出すにはまだ早い。
一緒に過ごすことができる。私はにっこり笑った。
男の名は、アシュレイといった。私はアシュレイと一緒に、
日がしずみかけた広い草原に延びる一本の道を歩き出した。
「シルヴィアが私達のおうちに来てくれたのは、本当に
嬉しかったわ。そしてあの子がいなければ、私もこの子も
いなかったわ。 産まれてくる子がもしも女の子だったら、
シルビィアって名付けようって、あのときアシュレイと決めたのよ。
そうね、あの子がどんな理由で私達の目の前へ現れたのか、
私にはわからないわ。だってあの子には、迷子になったというより、この
世界へ迷い込んだ子、っていう感じがいつもしたから。その辺の子ども
とは持っている雰囲気が違ったわ。全部しっているようにも見えたの。
短い間だったから、よくはわからないけれどね…。
でもアシュレイの姿をそっと見ているってときに、私に対して複雑な
表情を見せたり…、アシュレイに話しかけられるのは喜んでも、私には
1歩おいた喜び方をしていたような、そんな気もするの。私とアシュレイが話す
のも、暗い表情で見つめていたわ。もしかしたら勘違いかもしれない、でも
なんでそう感じるのかしらね? 本当に多分、私の気の所為だと思うんだけど。」
三. 遠い星
アシュレイと家を目指し歩いて、既に3日がたったが、
アシュレイの家は本当に遠い場所にあるようで、目に映るのは
白い雪をかぶった青い山々ばかりだった。だけども私はアシュレイと
一緒だったから、全然苦痛にはならなかった。
アシュレイは私のことを色々聞きたがって、私は言えない
もどかしさを感じながらも、一生懸命それに答えていた。アシュレイは
私に呼びづらいからと、シルヴィアという名前をつけてくれた。
「シルヴィア、そろそろ歩こうよ」
遅い昼食のあと、私が川でびしょびしょになりながら遊んでいると、
アシュレイが出発を促すように呼びかけてきた。私は急いで川から
出て、アシュレイのもとへもどった。
「なあシルヴィア、こうして仲良く歩いていると、まるで本当の
親子みたいだね。突然見つかった娘みたいだ。」私をおんぶした
アシュレイが、嬉しそうにつぶやいた。背中でうとうとしかけていた
私は、その言葉について考えようともがいたが、眠気が私を
つつんでしまい、私は眠りにおちた。
私が目を覚ましたとき、目にうつったのは木の屋根だった。
パチパチと何かが燃えている音がする。横を向くと、誰かがキスを
交す光景が目に入った。暖炉の火で微妙な逆光となって、私はその
片方がアシュレイだということに気付くまで、しばらく時間がかかった。
そこには、男女が居た。
居たというより…、
そう、私が部外者だったのかもしれない。
そんな思いをするほど、二人は二人の世界に
倒錯しているようだった。
キスだけなのに、どうしてそんなにくっついて、
絡んでいるのだろう?目が慣れてくるにつれ、私はだんだん、
私の背中に刻まれた罪の意味がしっかり全部わかってしまう
予感に怯え、反対を向こうとした。
布のかすれる音に、二人は長いキスをやめた。
空気が張り詰めたのが嫌で、私は今起きたような演技を
し、布団から起きあがった。
「シルヴィア、起きたかい」
アシュレイは私をかかえて、暖炉の前へ運んだ。
暖炉の明かりが、さっきまでアシュレイとキスをしていた
女の人を捉えた。息を呑むほど美しい、それはネイル様の
ようだった。
「紹介するよ、シルヴィア。この人は僕の奥さんの、
レダというんだ。」
「はじめまして、シルヴィア」
差し出された手を見る間もなく、私はショックで
意識と体を床に落とした。
醒めることの無い悪夢
背負った罪
消え果るまで
烙印は裏切り者
ひとつも手に入らずに
ふさわしいのがこの道なのか
何も怖くなかったのに
生きて行くのが今
あんなに憧れた生命より
痛くて、辛い
四. 孤高
これからこの体で、どうすればよいのだろう。声も出ず、どうやって
伝えればいいのだろう。私の表情や行動だけじゃ、この体から出る愛は、
アシュレイへは届かない。それは1番鈍い痛み、いつくしみにしか変わっては
くれないのだ。
そんなの欲しくない、私は只アシュレイと愛し合う
時間が欲しいのだ。いや、一緒にいるだけでも、せめて
それだけでも…よかったのだ。
なのに、アシュレイは私「だけ」を見ることは、もう、
できない身なのだ。「絶対に」。なんということだろう。
それだけのために私は羽を捨てたのに、
それすら叶わないなんて…。
月を見て、私は泣いた。
天使の頃、知ることのなかった苦痛に怯え、苦しみ、
泣いた。
毎晩、私は泣いた。
そのうちに、涙は出てこなくなった。
アシュレイと奥さんのレダが愛し合う夜も、もう
怖くなくなった。
私は昼、人間の子どもになった。
夜は悩む生き物になった。
痛みを思い出しては嗚咽したが、だけど
声は出ず、涙も出なかった。
私の銀髪は、白さを増した。
だが、アシュレイやレダは、それに気付くこともない
だろう。彼等は幸せの中にいるから、映る世界が、そこ
しかないから。それしか要らないから。私が居なくなれば
彼等は悲しむだろう、だが、困ることはないのだろう。
天にも帰れず、
地上にも居れず、
次第に私が願うのは、
地下の業火の音になっていった。
五. 気泡
「じゃあ行って来るね。名残惜しいけど。
僕が帰ってくる頃には、子どもの名前を考えておくよ。」
そう言って、アシュレイはレダにしか見せない顔でキスをした。
そして、たった今聞いた、突然のアシュレイの長期間の不在に
驚いている私に、その優しい顔を向け、言った。
「シルヴィア、僕はしばらく街へ仕事に出るんだ。春になったら
戻ってくるからね。勿論、君のお母さんのことも、街の皆によく
いっておくから。そんな不安そうな顔をするんじゃないよ。」
そう言ってアシュレイは私の頭をなでた。
やがてまた二人が会話をはじめたので、私は急いでそこらに
咲いている、秋風に半分ドライフラワーになったような花を摘み、
アシュレイに差し出した。
「ああ、シルヴィア」
そう言って、アシュレイは私を抱きしめた。
「ありがとう、シルヴィア、君が本当に僕の子だったら
いいのに!もしお母さんが見つからなかったら、本当に僕の
おうちの子になってくれるかい」
私は目を見ず、うつむいてアシュレイの服にその花をつけた。
「あぁ、素敵ね」と、レダも言った。
「シルヴィアが私達のおうちの子になれば、もっと
楽しくなるわね」
「そうだね、家族は多い方が楽しいね」
二人の会話は、止まりそうに無い。
いつになったらアシュレイは仕事にゆくのだろう?
「人数」を増やしたいだけなら、二人で作って行けばいいのだ。
別に「私」じゃなくてもいいはずだ。それに子どもなんて産まれたら、
どうやってこの家で過ごして行けばいいのだろう?
かといって声も出ないし、ほかに行くところも解らなかった。
私の気持ちは、沈んで行った。
ようやくアシュレイが重い腰をあげ、
私と一緒にたどった道を行った。もう私が
この道をアシュレイと二人で歩くことは
ないのだろう。
無くなっていた涙が、顔を出した。
レダと過ごすにつれ、私の最高に尖ったトゲは内面に深く
突き刺さったのはもうどうしようもなかったが、その傷から出血するのを
レダは止めてくれたように思えた。身ごもった女はこういう顔をするのかと、
私は疑ったり嫉妬したり憎んだり、それでもレダを慕うようになった。
淋しかったのかもしれない。
雪は深くなり、だけどもうこの先は、これ以上の積もりは
見せないだろう。私の背負った罪も、それ以上私を追い詰めなかった。
常にぎりぎりなのはどうやら全てにおいて言えるらしい。雪は
ゆるんだ大気に身を溶かしはじめてきていた。
それでもまだまだ、山に近いアシュレイとレダの家は寒い。
レダは暖炉の前で、産まれて来る子どもの服を編んでいた。私は
レダにつくってもらった帽子と手袋をつけて、いつものように外で
一人遊びをするためにドアを開けた。
雪は湿っていて、すぐに固まる。私は心で
歌を歌いながら、たくさんの玉をつくりはじめた。
私は本当に、本当の人間の子どもになってゆくの
だろうか。雪の匂いを嗅いでいたら、ふと、そう思った。
それでもいいかもしれない。
涙は滅多なことでは出なかったから。
私は沢山雪を玉に変えた。
これは、アシュレイ。綺麗な綺麗な、アシュレイ。
これはレダ。アシュレイの大好きな、彼のレダ。
これは彼等の赤ちゃん。産まれたがる、ゼス老人の
贈り物。
そしてこれは私。
ぼこぼこで、中には石がつまっているの。
こんな固い石、なければ今頃、雪に混じって
いたのに。
一緒に溶けてなくなっていたのに。
楽だったのに。
昼の太陽が顔を出していた。
そろそろ暖炉を使わなくてもよくなるな、そう思って私は
レダが暖炉の灰を掻き出す頃だと思い、家に引き返した。
家が、
轟々と音を立てて、燃えていた。
私は煙の多さと火の音に地獄の業火を想像し、怯え、
少し唇を噛んだ。何があったのだろう。そうだ、レダ、レダは?
私はとっさにその中へ飛び込んだ。
中はすごい温度まで気温があがっていた。私は涙と咳で
ぐしゃぐしゃになりながら、レダのいた暖炉へ向かった。レダは
編みかけの赤ちゃんの服を持ったまま、気を失っていた。顔は真っ青
のレダは、死んでいるように見えた。私はレダの肩に手を回すと、
そのまま歩こうとした。
床へ崩れ落ちた。
レダと赤ちゃんの胎動が、私の体に伝わってくる。
まだ生きてる。かっと私は目を開き、体中の力を持って
ようやく立ちあがった。が、その重さで私の片足はひどく
くじいてしまったらしく、激痛が走った。
でも、レダと赤ちゃんが生きている…。
歩かなくちゃ。私は痛みに激しく泣きながら、だけど声が出ないから
外へ出せない体に苛立ちを覚えながら、出口を目指した。だんだん
火が強くなってきていて、その部屋の暑さは、私の身を焦がした。
ああ、レダ……。
ふと、遠くなった意識をあわてて掴んだときに、私は考えた。
レダさえいなければ……。
後ろでガラガラと物が崩れる音がした。
私はその音に弾かれたようにまた前に進んだ。
だが、私のささやきは頭から消えない。
レダがいなければ、私が大きくなればアシュレイは愛して
くれるのではないだろうか。アシュレイに愛しているといわれたら、
私に魔法がかかりそうな、そんな気さえする。あっというまに大きく
なって、綺麗になって、言葉も出てきて……。
だけど……。
私はまた前へ進んだ。
私の体は、あちこちに火傷をして、もう持ちそうに
なかった。私がここでレダを置いて行けば、私は助かるだろう。
だけど、今度はもっと凄まじい痛みの罪を背負うであろうことも、
もう解っていた。
だけど……。
ああ、何故こんなに苦しい思いをしているのだろう。
どうして私の好きな人が愛する人を助けているのだろう。
どうして燃え盛る中に私は飛び込んでしまったのだろう。
どうしてアシュレイと出会ったのだろう。
どうして降りてきたのだろう。
どうして惚れたのだろう…。
私は怖かった。
私は震えた。
さらに進んだ。
私が助かっても、
アシュレイが助からない。
私はふと、そう思った。
それは嫌だった。
なんとしてでも、生きて欲しい。
嫌だ。
アシュレイが消えて、
レダが消えて、
赤ちゃんが消えて…
みんな消えないで。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
そんなの嫌だ。
好きだ。
幸せになって欲しい。
生きて欲しい。
嫌だ。
誰も消えていい人が居ない。
私以外は、居ない。
なのに私は、こんなに力がなくて、
飛べなくて、助ける役にすら立たない。
私が人間になったところで、一体誰が
救われたんだろう…
ああ神様。
その言葉で、奇跡が起きた。
私はもとの姿に戻ったのだ。
瞬間を私は見逃さなかった。
床を蹴り、私はレダの体に負担にならないように
力をこめて家から出た。レダを燃え盛る家から引き離す。
雪で体を冷やしては大変と、私はつけていた手袋や帽子を
レダのおなかにかけた。
ない。
赤ちゃんの服がない。
私は家へ引き返した。
赤ちゃんの服は、崩れ落ちたテーブルの上に乗っていた
花瓶の水や花に守られるように、床に転がっていた。私は服を
握り締めた。鍵を握り締めた瞬間を思い出した。
ああ、この感覚……
私はゆっくりと倒れた。
さようなら、レダ。
レダの赤ちゃん。
アシュレイ……
私の心は、全部の時間をさかのぼり、極限に飛び、
その勢いで体ごとはじけた。私の体は無数の気泡になり、
蒸発し、風になった。
家が、崩れ落ちた。
私は空気に混じった。
感覚がちょっぴり残ったけど、
私は目を閉じた。