どっち。

「一人を助ければ5人が死ぬ。5人を助ければ一人が死ぬ。
 片方しか助けられない場合、あなたならどうするか。」

こんな質問について、どちらが正しいか議論が交わされて
いるのを見たことがある。ある人は5人を助けるのが正しいと
言い、ある人は一人を助ける方がいいという。

 正式な答えが何だったかよく覚えていないのだけれど、
この質問は、アーティスト活動と一般の生活を送ること、
どちらを選ぶのか?という問いにも置き換えられると思う。

 先に質問についての個人的見解を述べるが、
周りに理解している人がいるかどうかによって、選ぶ答えは
変ってくると思う。

 一人が死に、5人が助かることを、死にゆくものの家族や
本人が了承しているなら、一人が死ぬことを選べる可能性が
出てくることだろう。5人が死ぬことを、5人の周りの者が
了承しているのなら、一人を助ける可能性が出てくるだろう。

 一人が有能な能力の持ち主であるだとか、
人数を多く助けられるほうが得だからだとか、そういう
ことで誰を助けるか決めることは、ものの見方や基準として
間違っていると個人的に思う。


 自己主張が乏しいと非難されるかもしれないけれど、
周りの意見を聞き、自分の希望と照らしてみて、自分に
意見する人が自分にとってどのくらい大事な人なのかも
考慮に入れて、どのくらい妥協できて、どのくらい理解できて、
どのくらいその選んだ結果に伴う現実と向かい合っていけるか
どうかなのだと思う。


話を元に戻そう。
アーティストを選ぶ人は、自分の身の回りの人間が
好奇の目にさらされる危険は常に持っていると思う。
作る作品の内容について様々な視点で捉えられる為、
思いもしなかった観点から自分を理解されることによる
誤解や偏見、畏怖、尊敬、興味等が生まれる。

それらがアーティスト個人だけではなくアーティストの
家族にも及ぶこと、あるいは家族からも理解されないことも
多々あることと思う。

一般の生活をすることとアート活動をすることの難しさと
それに伴う苦悩は、一度はアート活動に身を投じた人間なら
誰でも経験したことがあると思う。

誰のために叫ぶのか。
自分がやることで助かる人はいるのか。
自分がやることに意味はあるのか。
家族を敵に回してまで訴えなければならない正義とは何か。
又は家族を悲しませてまで使わなければならない表現とは何か。
自分が幸せにしたい人は誰なのか。
自分が笑顔を見たい人は誰なのか。
何を選んで自分の答えとするのか。


個人による普遍的な回答は下記。
家族を苦しめてまで伝えたい相手がどうしても見えなかった。
目に見えて大切な家族、目の前にいる大事な家族、親戚、
それらを無視してまで、未来に出会うであろう人の幸せを
願うこと、未来に賛美してくれるであろう人の声、それらを
期待しながら、我の道を突き進むことがどうしても出来なかった。

進んでいればいずれ道になることは理解していた。
だけど自分の大事な人を押しのけてまで作りたい我の道が、
私にはどうしても見えなかった。

生き延びたいのは私も同じで、諦めたくない、手放したくない
生であることは紛れもないのだが、今、どうしても何かを選ぶ
のなら、自分の要求は、私には選べない。
一人間として終わることを願う。
たとえ1万人に一人の才能であったと自覚があったとしても、
たとえ自分の才能を理解してくれる人が現代にいなかったとしても、
目の前にいる人たちを無視する道の先に、私が望む人間は待っては
いないように思える。

 この物事の受け止め方は、
自己犠牲だとかそういうものではなくて、選んだ答えが
間違っていたとしても、自分の出来ることとして、自らの
スタンス、過去、これからを、今一度見直してみることでしか、
答えは得られないのではないかということである。

そもそも選ぶこと自体が間違っているかもしれない。
何が正しいかわからないから、好きな人を悲しませないことを
基準にするのがいいのかなと思う次第。現時点では そんな風に思う。
未来は知らない。
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by otyou0710 | 2011-09-05 18:46 | 雑記

 icon作成/岡中様☆


by otyou0710